インドネシアの歴代大統領選
インドネシアは1945年の独立依頼、政治的な潮流が大きく変わる中で、多くの大統領選を経験してきました。
独立以来、国の将来を左右する重要なイベントでありながら、しばしばトラブルや論争が伴うことがあります。
実際に2024年2月に実施され「世界最大の直接選挙」とも呼ばれた大統領選でも敗退した政党から不正があったと選挙無効を求める声が上がりました。
今回のコラムでは、歴代のインドネシア大統領選挙を振り返りながら歴史的な背景とともに考察していきましょう!
Contents
歴代の選挙戦
スカルノ時代(1955年)
インドネシア独立後、初めての本格的な議会選挙が行われました。
この時当選したスカルノ大統領は議会の指示を受け、自らの政治理念である「指導的民主主義」を推進しました。その結果、スカルノ大統領は議会の支持を背景に強大な権力を手に入れましたが、実質的に独立体制が確立されてしまい、政治的自由は大きく制限されてしまいました。
スカルノ大統領の政治基盤は安心したものでなく、経済的困難、軍と共産党の間の緊張、地域からの分離手技運動など、国内で政治に対する不信感が生まれてしまい、政治的対立や抗議活動など内政問題に直面し続けました。
選挙が終わってから10年後の1965年、大規模なクーデターが起こりスカルノ大統領の失脚という形で結末を迎えました。
スハルトの新秩序(1967年-1998年)
スカルノ大統領失脚後に実権を掌握したのは、スハルト将軍でした。
1967年から1998年まで続いた「スハルトの新秩序」はインドネシアの歴史の中で特に重要な時期であり、この時代は各面において大きな変革を経験しました。
しかし、スハルト大統領の下で行われた選挙は、形式上は民主的プロセスを踏襲しているように見えたものの、実際には数々のトラブルや不正が行われました。
①1971年選挙
この選挙は、スハルトの新秩序政権下で行われた最初の国民議会選挙です。
スハルト政権の正当性を国内外に示すためのものであり、政府により広範囲に及ぶ操作が行われたとされています。
例えば、選挙前の準備段階から政府は反対派の動きを厳しく制御しました。主要な反対政党や政治家に対して嫌がらせ、逮捕、メディアを通じたプロパガンダなどが行われました。
また、選挙管理委員会は政府の影響下にあったので、投票所の監視が不十分であったり、投票用紙が不足するなど整備不備が各所でみられ選挙結果の信頼性に疑問や不信感が生まれる要因となりました。
結果的にスハルト政権はさらにその権力を固めることに成功しましたが、国内外からの批判を受けて、後の選挙への監視強化を求める声が高まりました。
②1977年選挙
1977年の選挙はスハルトの新秩序政権下で2度目の選挙でした。
政治的抑圧がさらに強化された時期に行われ、反対派に対する圧力が顕著になっていたことが特徴的です。
選挙前はスハルト政権にとって脅威となり得る勢力は事前に排除していました。メディアも政府の厳しいコントロール下にあり、選挙に関する報道は政府のポジティブなイメージを強調する内容ばかりでした。
また、投票プロセスでは多くの不正行為が報告され、特に票の買収や投票結果の操作が目立ち、選挙の透明性と公正性からはかけ離れたものになってしまいました。
選挙の結果はスハルト支持の政党が大勝。スハルト自身の権力基盤はさらに強固なものになりましたが、選挙後の民主化運動の火種となっていきました。
③1980年代選挙
1980年代のインドネシアでは、スハルト政権が安定しているかのように見せかけるために選挙を利用しました。
政府は政府に対して反対意見を持つものたちに対して厳しい監視と制限を強化。選挙結果と厳しい規制により、実質的に反対勢力が影響力を持つ余地はほとんどありませんでした。
④1997年選挙
1997年の選挙はスハルト政権下で行われた最後の選挙であり、この時期はアジア通貨危機という極めて困難な経済状況の中で実施されました。
この影響でインドネシア経済は急激に悪化し、インドネシアの財政と経済の脆弱性を露呈し、政治に対する国民の信頼を大きく損ねることになり、スハルト政権への不満が爆発的に高まってしまいました。
選挙自体は以前と同じように、政府による厳重な監視と制御のもとで行われましたが、経済危機が選挙の背景にあったことから、国民の間に今までにない不安と緊張が高まっていました。
結果としてはスハルト政権に有利なものとなり、権力は表面的には保たれていましたが、インターネットの普及により反対派の意見を完全に防ぎ切れるものではなくなってきた時代でもありました。
1998年になると広範囲にわたる学生運動と市民講義が発生しました。これがきっかけとなりスハルトは最終的に辞任をし、インドネシアは民主的発展に向けた道を歩み始めました。
2004年初の直接大統領選挙
1998年のスハルトの辞任後、インドネシアは「改革時代」と呼ばれる民主化の波に乗り、政治的および社会的に大きな転換期を迎えました。
この時代の最初の大きな変化は、2004年に行われた初の直接大統領選挙です。この選挙は本格的な民主政治への移行を象徴する出来事となり、この結果、スシロ・バンバン・ユドヨノが大統領に選ばれました。
民主化プロセスの中で、表現の自由が大幅に拡大され、政治的多様性が認められるようになりました。
その裏では透明性を高める多くの改革が推進され、対汚職委員会が設立されるなどガバナンスの向上が求められました。
地方分権もこの時期の重要な政策の一つで、地方自治体により多くの権限と責任が与えられました。これはジャカルタ中央政府に集中していた権力を地域に分散させることが目的で、地域の特性に応じた政策が展開できるようになり、地域の発展に寄与することが可能となりました。
2014年の新しい政治の幕開け
2014年のインドネシア大統領選挙では、国の民主化進展の中で統治に注目された重要な選挙でした。
この選挙は、ジョコ・ウィドド(通称ジョコウィ)とプラボウォ・スビアントという二人の候補者間で激しい競争が繰り広げられました。
ジョコウィはジャカルタの知事として成功をした後「一般市民から出た候補者」であるのと対照的に、プラボウォは元将軍でした。
また、2人のインドネシアの未来に対するビジョンも全く異なるものでした。
ジョコウィは透明性を重視し、腐敗との戦いや社会福祉の向上を公約として掲げました。
一方プラボウォは国家の安全保障と強い経済政策を強調し、伝統的な権威を重んじるアプローチを提案しました。
その結果、この選挙はインドネシアを分断する選挙史上最も熾烈な争いとなり、両候補間の票数の差も僅差でした。最終的にはジョコウィが勝利したのですが、この結果に対してプラボウォ陣営は不正があったと主張し、結果の向こうを求めて訴えを起こしました。
裁判所はプラボウォの訴えを却下し、ジョコウィの勝利は正式に確定しました。
これはインドネシアにおける「新しい政治の時代」の幕開けとなり、若い世代や都市部の有権者から支持を集めました。
2019年の民主的プロセスの成熟した選挙
2019年に再びジョコウィとプラボウォの2人が選挙で争うことになりました。
この選挙ではジョコウィは経済成長の継続、社会保障の拡充、インフラ整備の推進を訴え、自身のイスラム教徒としての立場から宗教的寛容を強調しました。
一方、対立候補のプラボウォは国家主義と経済ナショナリズムを掲げ安全保障の強化と経済の自立を訴えました。
選挙結果はジョコウィが再選したのですが、プラボウォは結果に不服を申し立て、選挙過程での不正を主張し、プラボウォ陣営やその支持者たちは選挙不正の証拠や大規模な抗議活動を展開しました。
これにより、首都ジャカルタで数日間にわたる抗議が発生し、警察と衝突し死者を出すほどの事態に発展してしまいました。
しかし、証拠不十分として訴えを却下、再びジョコウィの当選が決まりました。
2024年ジョコウィの後継者
一番直近の2024年の選挙ではジョコウィの任期が終了するため、その後継者として多くの政治家や公人が名乗りを上げました。
結果を見るとプラボウォとジョコウィの長男であるギブランの正副大統領ペアの当選が確実となりました。
2023年の前半まではプラボウォは決して最有力の候補ではありませんでした。過去2回の選挙ではジョコウィと激しい選挙戦を展開しながら僅差で敗北を喫していました。
プラボウォ自身もジョコウィの支持層の固さを身をもって知っていたので、その支持層をそっくり取り込むことにしました。
そして、人気を取り込む上で最も効果的だったのが、ジョコウィの長男であるギブランと手を組むことでした。選挙当時36歳だったギブランは大統領選に出馬する条件である「40歳以上」という要件を満たしていませんでしたが「地方主張経験者を例外とする」という解釈を示したことで立候補が可能となり、特別待遇されているというイメージがついていました。
そこで、プラボウォとギブランが手を組んだことでプラボウォこそがジョコウィの後継者であると強く印象付けることになり、それまで「中立」の立場を表明していたジョコウィ大統領もこの2人を指示すると決めたことが転機となって支持率1位に躍り出て、最終的に当選を果たしました。
まとめ
インドネシアの選挙は、国の民主主義の進化と成熟のバロメーターとして機能しています。
今日に至るまで、インドネシアの選挙プロセスは、過去に不正投票、票の買収などが常態化し、選挙結果への不服が多く発生しています。
そして、2024年の選挙も同様の問題に直面していることからも、民主化プロセスに改善の余地があることが分かります。
この課題を乗り越えることでインドネシアはより民主主義の基盤を強固にしていくでしょう。まだまだこれからのインドネシアの発展から目が離せません。